心理検査の発展に貢献した女性の話

心理検査の発展に貢献した女性の話
Illustration: Elena Scotti (Photos: Getty Images, Shutterstock)


1987年、心理学者アン・アナスタシーはロナルド・レーガン時代のホワイト・ハウスからかかってきた電話を切る前に「そんな暇はない」と言ったと伝えられています。フォーダム大学心理学部のHarold Takooshian教授によれば、この電話は彼女に心理学でのアメリカ国家科学賞の初受賞を伝えるためのものだったとか。再びかかってきた電話もアナスタシーは断り、その後フォーダム大学心理学部の秘書への電話で、実際に受賞したと彼女を納得させることができたのでした。

フォーダム大学でアナスタシーと共に働いたTakooshian教授が語ってくれた話では、「数年後、彼女の名前をプログラムに載せた際、女性として初めて心理学でアメリカ国家科学賞を受賞したと書いたら、アナスタシーはわざわざ電話してきて『この「女性」って何よ?』と言われてしまった」とか。「彼女は、『私は初の受賞者であって、初の女性ではない』と言ってきた。…科学者でしたから、いかなる言葉の誤りも嫌っていた。もちろん、私は会議のプログラムを修正したよ」とのこと。

心理検査を科学に引き上げた

Takooshian教授いわく生徒たちから「アニー」と呼ばれていたアナスタシーは、アメリカ国家科学賞の受賞に加えて、1972年にはアメリカ心理学会(APA)の会長を務め、計量心理学の検査の手法や分析の包括的な土台を確立した『Psychological Testing』7版を含む権威ある教科書3冊を出版。歴史家のWade Pickren氏は、アナスタシーの生誕100周年にちなんでAPAのために書いた賛辞の中で、同書は20世紀におけるもっとも重要な心理学のテキストの1つだったと綴っています。

ノースフロリダ大学の心理学教授で『Psychological Testing』第7版の共著者であるSusana Urbina氏は、「40年代後半と50年代初期、その(心理検査の)分野は栄えていた」と教えてくれました。「しかし、系統だってなかったのです。彼女の真の業績は、この領域を理解して検査をカテゴリー別に整理していったこと」なんだとか。

アナスタシーは50年近くの研究職と教授職において、自身の教科書、見方の偏った検査構築への批判、そして現在でも議論を形作る先天・後天論争への微細な理解の促進を通じて、心理検査の実践と理解を形作っていきました。

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Photo: Harold Takooshian (Courtesy Harold Takooshian)
1988年、フォーダム大学でのアナスタシー。精神測定学の歴史をソ連からの研究者に説明している。

想像上の階段で遊んだ幼少期

1908年にイタリア移民の子としてニューヨークに生まれたアナスタシーは、1歳のころに父親を「腹部の病気」で亡くしています。彼女は母親、祖母、そしておじに育てられ、自伝の中ではこの家族のことを、貴族的だけども経済的に苦労している家庭と表現。母親はイタリアの新聞Il Progresso Italo-Americanoのオフィスマネージャ職に落ち着くまでは、実用的な商業のスキルに欠けていたものの、短命に終わったピアノ会社など家族を養うために変わった職種で一生懸命働いていたと記しています。幼少期のほとんどを家の中で祖母と過ごしたアナスタシーは語学、歴史そして数学の早期教育を受けました。しかしながら、彼女が人と交流する機会はないに等しかったのです。

「同い年の遊び仲間がいませんでした」と彼女は自伝に綴っています。「想像上の遊び仲間さえもいませんでした。でも想像上の階段はあって、とても楽しかったです」

師に出会う

アナスタシーは小学校で数年間の正式な教育を受けた後、優秀だったため数学年飛び級しましたが、超満員の教室と校舎が彼女いわく「人間が使うには不向き」だったせいで高等学校をたった2ヶ月で中退。しかし、そんなことには屈せず、大学入学の要件を補講で修了して、数学を専攻するつもりで15歳の時にバーナード・カレッジに学部生として入学します。

しかし、彼女のキャリアの師となるHarry Hollingworth教授に出会ったことで、数学への傾倒はすぐに心理学に追い越されます。自伝の中でアナスタシーは、同教授の講義の新しさに引き付けられ、数学への情熱と新たに芽生えた心理学への興味を結び付けることにワクワクしていたと語っています。彼女はバーナード大で心理学の卒論を仕上げて、その直後にコロンビア大学での博士課程に入り、21歳で修了しました。

人そのものの能力に興味

博士課程の学生だった間、アナスタシーが追究したある疑問は、文化的なバイアスのない、人の先天的な能力(たとえば知性など)を測定する検査を設計することは可能かどうかというものでした。自伝に執筆した内容によれば、1929年の夏の間、彼女と2人の大学院生は言語、数字、鉛筆と紙さえも使わずに「知的天分」を測定する検査を創案するため日に8時間は会っていたとか。その夏にアナスタシーが考え付いた検査のアイデアの1つは、典型的な数字符号置換検査の構文で、色と数字を置き換えるものでした。チームはほうきの柄を、アナスタシーのカラーボード上で動かすための検査材料として使える59の小さな円盤へと切り分けることに。

アナスタシーは、完全に文化の影響のない検査を設計するにあたってグループが直面した障害は、心理学コミュニティにおける生まれつきの能力の存在に対する信仰を揺るがすのに一役買ったと書いています。能力と文化の明らかなもつれは、アナスタシーがキャリアの後期においても先天・後天の論考を形成し続ける新発見でした。

予言は思慮深く

ミネソタ大学の心理学教授であり、2010年度のAPAのAnastasi Early Career Award受賞者であるNathan Kuncel氏は「彼女は私たちが答えたいと思っていた質問についての話し方、そして心理学的なデータを実際にどう考えるかということに関しては特に思慮に満ちていた」と語っています。「影響力の大きかった彼女の論文の1つは、先天・後天について考える時には(シンプルな答えを)超えて、こういった予言がどう展開するのかをもっと理解しようとすべきだと述べていた」とのこと。

問題となっている予言とは、人の行動と態度が決定づけられるのは彼らが持っている生まれつきの性質(自然・先天)か、それとも彼らが育ってきた環境と影響(養育・後天)なのかというものです。どちらか一方に対してつらく当たることはせず、アナスタシーはハイブリットなアプローチをとって、人はタイムラインに存在するたった1つの出来事による産物となる代わりに、人生のおける多くの異なる要因の影響をいかに受けるかといった点に注力したとKuncel氏は語っていました。そうすれば、人の能力や性質が有限に決定されることはなく、それまで経験した最終的な影響を反映できます。

威厳のある教師に

アナスタシーはアメリカが大恐慌に支配された頃、学業を修了。彼女はいくつかの教職を経て、引退するまで在籍したフォーダム大学での職に1947年に就きました。

教室の中での彼女は威厳のある存在でした。学生時代にアナスタシーから論文指導を受けたスクラントン大学の心理学教授Thomas Hogan氏は、彼女は絶対にステップを抜かさない人で、いつも蝶型リボンで着飾っていて、正確な30単語の文で話していたと教えてくれました。

「彼女は教師として非常に系統立っていてとても理路整然としていた」とHogan氏。「彼女はその関連するコンテンツについて、慎重を期すること、さらに細心の注意を払って扱うことを力説した。常に最新の研究とその研究の慎重な統合に通じていた」とのこと。

検査結果はスナップショット

アナスタシーは、心理検査の限界の理解の仕方を変えました。現代において偽心理テストをのんきに受ける人の多くが、検査の結果をアイデンティティの決定的な部分として解釈しがちです。しかし、彼女はそうではなく、環境の影響を受けた現況のスナップショットとして結果を見ることを推し進めたのです。

2001年に亡くなる前、アナスタシーは自分の財産からの資金が直接的に心理学部の学生の役に立つよう自身の名を冠した財団を設立しました。さらにAPAからは毎年、キャリアの早い段階と、大学院生による業績への2つの賞が彼女の名前で授与されています。

Source: APA, verywellhealth, psycnet

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